『私は貝になりたい』1959年
これは、母親に連れられて観に行った。
オリジナル映画版のほうだと思う。
自由が丘の線路横にあった建物の中の小さな映画館。
観客が感涙にむせぶ「時」を共有できるような、こじんまりした環境だった。
映画館という戦場の別種の局面を教えられた。
バンザイの興奮の対極には、哀しみの涙がある。
けれども、母親をはじめとして、泣いているまわりの大人たちに、わたしがいだいた感情は、淡い恐怖だった。
ここにもあったのだ。
戦争は映画であり、映画は戦争である。
――という20世紀世界が。
もらい泣きに反戦の涙を流すほどには「生長」していなかった。
戦争映画観客(男たち)の好戦性も、
反戦映画観客(女たち)の感傷も、
子供にとっては、まだ届きようもない世界だった。
銃剣をかまえたフランキー堺が、棒杭に縛りつけられた捕虜に向かって(上官の命令で)突撃していくシーンはよく憶えている。
駅前の散髪屋の主人は、わたしがさる陸軍大将と同姓同名であることを何故か知っていて、顔を見れば「ヨォッ大将」と敬礼のマネをするのが常だった。
主人に悪気はなかったが、少年にとっては残酷な試練であったのかもしれない。
順番待ちのコーナーには、戦争雑誌の『丸』がそろっていて、わたしは、熱心な愛読者だった。
零戦戦闘機の知識、その他の戦争情報をそこから貪欲に吸収した。
他のジャンルの雑誌があったかどうかは、憶えていない。